2014年12月30日

「嫌い」と「考えが合わない」は別のこと

だと考えるようにしています。
少なくとも「人」に関しては。

人なんか嫌いになっても、自分が嫌な思いをするだけで何の利益にもならないので、極力そういう人は増やしたくないと思っています。
なので、「嫌い」と「考えが合わない」という2つの感情を、分けて考えています。

「嫌い」というのは、もうその人の事をどうやっても理解できない、理解しようという気にすらならないような状態になる事。と考えています。
幸い、そんな状態の人は、今のところ居ません。自分自身のほうが間違ってる可能性を否定できないからです。というか、私の場合、たいてい数ヶ月後(または数年後に)冷静になって考えてみると「自分も悪い」(もしくは「自分が悪い」)という結論に落ち着くのです。
嫌いかどうかのボーダーラインに居て、私自身でも判別がつかないような存在、であれば思い当たりますが、それも3より多くなる事はないでしょう。

「考えが合わない」のは文字通りの意味で、単に考えが合わないだけです。
もしくは、関わると自分が不利益を被る可能性があるので、避けているだけです。例えば、今いる職場の部長なんかがいい例で、人間自体は嫌いでないどころかむしろ興味深い人だと思っているのですが、あんまり関わりたくありません。気を使いますし、機嫌を損ねると不利益を被るからです。
そういう職場的な力関係でなくても、例えば「自分の事を嫌いかもしれない人」なんかは、例えこちらが嫌いという感情を持っていなくても、あんまり近づきたくありません。なぜなら傷つきたくないからです。でも嫌いなわけではありません。
あと、分かりやすい例として「話していて疲れる人」の例を出せば良いのかもしれませんが、これは私も人の事を言えないので、まあ置いておきます。

‥‥こういう事を考えていると、「嫌い」という感情はほんとに複雑なものだと思います。それでいて、抱いても自己嫌悪に陥るのが分かっている感情なのです。
私は別に聖人君子ではありませんので、嫌いな「事」や「物」はいくらでもあります。事象や物はこっちがいくら嫌っても怒ってきませんから、一時的(もしくはとても長い間)嫌いという感情を持つ事もあります。何かを嫌いにならないように生きることは、たぶんできません。
人だけは嫌いにならないようにしていますが、それは「それによって自分が傷つきたくないから」という極めて利己的な理由からであり、更に言うと、それは単に恐怖という感情が嫌いという感情を消しているだけです。嫌いになるのが怖いから、色々理解しようと頑張るわけです。たぶん。

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という刷り込みを、学生の頃から抱えている程度には、私は不安定な人間だったりします。たまに「自分は言葉の定義をねじ曲げて、自分を納得させているだけなんじゃないだろうか?」と思う事もありますが、あんまり深く考えないようにしています。
でも、こういう心の奥底を文章にしてみると、もしかして色々見えてくるのではないか、などという火遊びめいた感情のせい(もしくは「まだ自分が把握していない自分」を掘り下げたいという願望のせい)で、こんな事をわざわざ文章にしてみた次第です。

自分の性格は、あらかた理解しているつもりですが、全部は知りません。たまに何かを考えているときに、「何か触れてはいけないもの」が頭の中に浮かんできて、慌てて首を振って忘れるような事が何度かあったりします。
だから、たまに(今までも書いてきたように)心の整理のためにトンデモな記事を書いたりするわけですが、まあ、ここはそういう場所なので。というお決まりの逃げ口上で軽くまとめておく事にします。
ここがこういう場所でなかったら、たぶん今頃もっと壊れてるかもしれませんし。
posted by TCT at 23:59| Comment(0) | 日記
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